[映画]ノーカントリーのラストを解釈「シニカルすぎて つまらない」

No Country For Old Men (2007) Official Trailer – Tommy Lee Jones, Javier Bardem Movie HD

時代にそぐわなくなった老保安官ベル

良く分からん映画の筆頭とも言える ノーカントリー(2007)。この映画は原作者にでも聞かない限りは メインメッセージは何なのかはわからない。

そして製作者も「あの映画はこういう意味ですよ」 なんて語らないので、描かれていない部分の解釈は 視聴者次第と言えるわけです。

この映画が厄介なのは 無駄に登場人物が多いところです。キノコカットの殺人鬼シガー、老人保安官ベル、元軍人のモス、モスの嫁。

メインメッセージをさぐるために、主人公の 老保安官ベルから見ていきましょう。この人は 祖父、父、そして自分と3世代保安官でした。つまりオヤジの後を追って、保安官になった人です。古き良き保安官。

作中で何度も言われているのは 「自分たちの若い頃とは時代が違う。犯罪の質が変わった。昔は拳銃をもたずに勤務が出来たけれども 今はそういう訳にも行かない。手に負えない世界の中で 俺達みたいなロートルが格闘しているんだ まったく理解できない」という内容。

実際 殺人鬼シガーと、金を持って逃げ続けるモスは どんどん先に行ってしまう、その一方で保安官ベルは一歩遅れている。

ベテラン保安官のベルは 犯罪をする側にも一定の自制心や理性があった時代を経験している。しかし 時代の変化について行けない、普通のハリウッド映画では若い保安官を起用する所だが、いちいち引退間際の保安官を主役に置いているのは、時代の変わり目を老保安官の目から見せたいということだろう。

時代が変わったといいたいだけなのか

ここで思う、では この映画は 旧世代とは 時代が変わったといいたいだけなのかと。

いやいや、そんな単純なはずがない。物語の終盤で、ベルが叔父の家に寄った時に 祖父は8人組の強盗に襲われて 保安官として戦うも 死亡したことが分かる。

昔は昔で、無秩序で、いつ暴力が飛び出してくるのかは分からなかったんだなと。程度の問題はあれど、昔から 予測と運命コントロールは難しい時代だったと言えるわけです。

「この国は人に厳しい。何も止められない。変えられると思うのは思い上がりだ」という風に不潔な叔父さんはベルに言う。

では 叔父さんが 諦めのセリフを言うだけのニヒリズム映画か、と思いたくなる。

ところが、その直後にシーンが切り替わる。シガーがモスの嫁を殺しに来るシーン。シガーは死を宣告する存在で、被害者にとってみると、自分の意志でコントロールはできないように見える。

モスの嫁の反撃

モスの嫁はベルに 非常によく似ている。家族思いで、ベルに夫を助けるように手をうち、祖母の葬儀に参列、一人家を守っている。古き良き市民である。

一方のシガーは気まぐれで人を殺す。このキノコ頭は死神気取りなので、コインの表裏で相手を殺す。被害者の意思は関係ない。被害者は 運命に身を任せるしか無い。

これは叔父の「世の中の流れは止められない」とリンクしている。

しかし ここで嫁が思いがけないことを言う。「お前が殺してきたやつなんて、実は殺さなくて良かったんだ。殺してきたのは 全部 お前の意志だ このクソキノコ」という訳です。

シガーはうんざりした顔をする。超自然的な死神であったはずの自分が、実は ただのイカレ野郎だと喝破されると同時に、より大きなテーマである 簡単に人を殺すような流れなんて 頭の悪い人間が増えているからだ、それは人間の知性の問題であると 叩きつけるわけですね。

個人的には これが隠しメッセージのような気がします。

善人なモスの嫁は 最後にシガーに強烈な一言を食らわせる。しかし残念ながら そのまま殺されてしまう。確かに 運命の流れは変えられなかった。

シガーの凋落

しかしこれはシガーの勝ちを意味しない。ここで冒頭に戻るが、「魂が危険になったら OKと言わないといけない」という言葉が出てくるわけですね。

これは窮地に陥った時 人間がどう生きるのかの話ですね。死を覚悟しても 魂(信念)は守らないといけないと。ベルの祖父が倒れた時も暴漢と最後まで戦おうとした。

叔父は、死んだのは間違いだ 埋葬した祖母を哀れに思った。でも祖父は死んでも魂は守らないといけないと思って戦った。

嫁も同じで シガーを前にして 「ああ殺される」と分かった。キノコ(死)から自分の運命を決めろと言われた。

でもこの死というのは 本来は避けられない死(天災)ではない。キノコの意志による人災だ。このキノコのいいようにされてたまるか。このイカれやろう。

こんなキノコに 従って殺されたくはない。このイカレ野郎は ただ気まぐれで殺している人間に過ぎないと反抗して死んだ、とこういう訳です。

叔父のように、ただ運命を受け入れて「表を選びます。ああ裏が出ましたか、では死にます」というのではなくて、「表が出ようが裏が出ようが殺さないっていう選択もあるだろう。変なルール決めてんのはキノコのお前だろうが」と反抗して死ぬわけです。

死ぬにしても抗って死んでるから 飲んだくれ負け犬の叔父とは違うわけです。

そんでシガーは その途中で事故にあって 左腕を骨折。ここで超自然的な存在が、普通の人間に戻ったという見方もできます。

しかし 人間に戻ったと言うよりは 理不尽な暴力が 理性によって一定量のダメージを受けたという風に見たほうが良いかもしれない。

人間の知恵で どうにか出来る程度の存在まで落ちたという暗喩でしょう。

ベルの夢の解釈

そして 最後のベルの夢のシーン。1つ目の夢は オヤジから金をもらったけど 無くしたという夢。これは 父に憧れて保安官になったけど 今は 引退した、というくらいの認識で良いような気がします。

重要な2つ目は 雪山の山道をベルはオヤジと一緒に 馬で進んでいる。そのうち オヤジがトーチを持って先に行って見失った。しかし ベルが先を進むと この先のどこかで 焚き火を焚いて オヤジは待っているだろうという夢。

山道の長さは人生の長さで、ベルは明かりを持って道を照らすオヤジの背中を追いかけてきた。途中オヤジは居なくなって(死んだ) 真っ暗になった。追うべき人を失った。

でもオヤジはこの先で俺を待っている。それは分かっている。というまとめなんですね。

ベルは勤務を続けてきたけど 現実っていうのは雪山のように厳しかった。犯罪は無くならないし、どうやっていいか分からない真っ暗闇。

この闇を照らす光があるとすればオヤジだった、まだ道は続いているが、俺はこれまでオヤジの後を追い続けてたし この先にオヤジはいるに違いないという話。

ベルは オヤジと違って光は持っていなかった、光が何を意味するのかはわからないけれども、闇を暴き出す意欲や熱意みたいなもんでしょうかね、そういうのは持てなかった。それでもオヤジはどこかで焚き火を焚いているだろう。つまり 希望を捨てないだろうと信頼しているわけですね。

はびこる犯罪に対して ベルは意欲を失ってしまった。そういう現実を言っているのかも知れません。老いてやる気が無くなる。状況は弱いものに冷たい。ただそういうものだと。

なんとも希望のない終わり方です。光が無いなら作ればいいんですが、そういう意欲もなくなっている。面白くない終わり方です。

なんでこの終わり方か

ノーカントリーというのを 良くあるエンターテイメントにするならば、モスが死に、妻が殺され、ベルがキノコ頭を追い詰めて逮捕とか射殺とか そういうのが ハリウッドっぽいんだけれども、

あえてリアリズムを入れて 簡単に消化させないようにしたのでしょう。視聴者が望むような形にはしなかった。同じコーエン兄弟のトゥルー・グリッドは善をなすにも犠牲が伴うという 視聴者よりの展開なので面白いんですけどね。

ノーカントリーでは 巨悪が捕まらないし、善良な行為をしているのに理不尽に殺されてしまったりもする。やる気がある保安官も 厳しい現実の前に押しつぶされてしまいそうになる。

そして世の中はランダムな出来事が起こって混沌としている。世の中をよくしようと思っても押し返されてしまう。 ただ世の中は いくら無茶苦茶であっても、それぞれの生き方、信念は選べるよという 非常に地味な内容なんですね。

総合40点

ラストが曖昧なまま終わるので、アメリカではクソ映画っていう意見も多いわけです。日本では大衆迎合なので 多数決で流れが決まると 絶賛の方向に寄りやすいけども。

そして難解にしておいても、数人が意味を発表して「深い」とか言い始めるので、その理解できた自分に満足して評価が上がるという 不思議な現象が起きるんですね。だから作品自体への評価ではないわけです。

私の評価は100点満点中 40点。単純に映画としてつまらない。人に親切にするほうがバカを見る作品を高評価つけたくないんですよね。ホラー/スリラー映画だったのなら高評価ですが。

自分が エンジントラブルを助けようとして殺されたおじさんだったら すげーイヤでしょ。ただの日常犯罪であって スカッとしない。

あそこまでヘイトを溜めたら、キノコを最後に殺したほうが安定するわけで。

例えば ターミネーター2をノーカントリー風に寄せると、液体金属のターミネーターが野放しになって、散々人を殺して、最後にサラ・コナーが「逮捕したかったなー、でも年だしー」なんて言っているに等しい。そんなのゴミ同然です。

ベルの後継者がいなかったり、人に親切にしている人が全く報われない。無礼で強欲なやつが逃げおおせる。こんなのは悲観主義に寄りすぎた ひねくれ老人が晩年に書いたんだろうなと思うわけで、実際 コーエンもこの後は こういう作品を撮ってないんですよね。

こんなの作っちゃうと精神的にもよくない。世の中の流れに逆らわず 現実をあるがままに受け入れろ なんて死んでいるのと同義なわけで。

映画だったら 最後にシガーは脳にボルトを打ち込まれて死ぬか、せめて事故のところであっさり死んでほしかった、そして別の形のシガーが出てきてほしかったと思うわけですね。

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